二つの慣性系を用意する。から見ては軸の正方向へ速さで等速直線運動しているとする。相対論の話で良く出てくる「速く動く時計の進みが遅くなる」という話を、このシチュエーションで見てみる。これは要するに、から見たの世界線の任意の2点を選んだ時が採用している座標系におけるの時間間隔と、これをの座標系に座標変換した時のの時間間隔が異なるということである。
しかし、運動が相対的であることを考えれば、から見ての時計が遅れているということは、逆にから見ての時計が遅れているとも言えるのである。では、どちらが正しいのか? というのがこの場合のパラドックスである。
例えばがの様子をずっと観察し続けたらどうなるだろうか? は互いに20歳で原点ですれ違ったとしよう。から見ての時計はゆっくり進むのだから、が60歳の時、が30歳になっているということが起きる。しかし逆に、全く同じことがの視点で起きるわけだ。すなわち、が60歳の時、が30歳になっているとからは見えるはずだ。これは矛盾なのか?
このパラドックスは、同時という概念の相対性を認めることで解消できる。端的に言えば、双方が述べている「自分が60歳の時、相手は30歳だった」という説明は、どちらも物理的に正しいということになる。それはなぜか。この主張は、「自分が30歳になった世界点」と「相手が60歳になった世界点」が自分から見て同時刻であるという意味である。しかし、二つの異なる世界点に関して、それが同時刻か否かという問題に物理的な意味は無いのである。それはあくまで座標系に依存する概念であり、すべての座標系で成立する事象ではない。
から見ての時間が遅れて見えるというのは、にとっての1秒がにとって0.1秒ということだ。しかし、この言明に意味があるのは、が1秒を測る始点と終点と同時刻のの動きを見なければならない。1秒を測るためにストップウォッチを押した瞬間、つまりストップウォッチを押した時空点と同時のの状態=時空点という概念と、1秒が経過してストップウォッチを止めた瞬間と同時のの状態という概念に意味がなければならない。つまり、から見たの時間の遅れというのは、あくまでにとっての同時刻という概念の範疇でしか意味を持たない。
このように、が慣性系であればこれで説明が終わるのだが、問題はが途中で折り返しての場所まで戻ってきた場合である。が再会する時空点はにとって同時が意味を持つのである。
特殊相対論の範囲で加速度運動を扱うことは十分可能である。
出発した瞬間の時空点を、二人が再会した瞬間の時空点をとしよう。問題はの座標系で見たの時間間隔と、の座標系で見たの時間間隔を比べることである。という慣性系に対しては加速度運動するわけだから、は慣性系ではない。あるいは、論理的に厳密に言えば、のどちらかの座標系は慣性系ではない。物理現象の測定を行った際、のどちらかは慣性系とは異なる結果を得る。それをとしよう。
慣性系と非慣性座標系との間の座標変換は明らかではない。ここが最も大きな問題である。双子のパラドックスを解くカギは、加速度運動する観測者の用いる座標系を特定することにある。そして問題の核心は、このような座標系が時空多様体のチャートとして存在するかどうかである。つまり、まずが数空間への同相写像であり、さらにと他の座標系との座標変換がでなければならない。
加速度運動する観測者の座標系を、物理的な考察から導いた時、この2性質を満たすかどうかが問題である。
がの様子を観測し続けたらどうなるかと考える。しかし、そのためにはの座標系がを含むほどグローバルに定義されている必要がある。加速度運動を行う座標系は局所的に、つまりごく近傍でしか定義できないのではないだろうか?
加速して座標系の方向を転換するときに時間座標も不可避的に変換されるため、その結果から見たの時間座標が大きく変化するのではないか?
宇宙が球面のように一周できる位相構造を持つ場合は、が加速度運動を行う必要はない。原点ですれ違った慣性座標系が、が宇宙を一周することでと再会した場合を考える。
この場合、端的に言えば特殊相対性原理が破れることを認めれば矛盾は解消される。双子のパラドックスの根底には、特殊相対性原理、つまり「任意の二つの慣性系について、慣性系内で完結する実験によって、自分がどちらの慣性系に属するか判定することはできない」ことが前提とされていた。しかしこれはあくまで原理、つまり仮説なのであって、それが成立しなくても良いのである。この仮説は単に、我々が今まで観測してきた種々の断片的事実から「成り立っているに違いない」と演繹されたものに過ぎないからだ。そして、我々の観測精度や範囲は、宇宙のごく狭い領域に限られている。したがって、宇宙全体のトポロジーを問題にするようなレベルで観測や実験が行われたことはない。
また、思考実験のレベルでも、我々は暗黙のうちに無限に広い宇宙というものを想定してしまっている。無限に広い宇宙で、しかも二つの慣性系がどれだけ離れていても、両者を区別することが出来ないと仮定している。
ただ、次に問題となるのは、特殊相対性原理が特殊相対性理論の根幹だったのではないかという点である。これについては、実は特殊相対性原理は相対性理論の理論構造に対してそれほど重要性を持っていない。特殊相対論構築の議論を振り返ってみると、特殊相対性原理は自由粒子のラグランジアンを決定する際に、ラグランジアンがローレンツ変換で関数形が不変であるという仮定を設ける際に用いられているに過ぎない。つまり、特殊相対性原理は自由粒子のラグランジアンを見つけるという際の手掛かりになっているだけなのだ。時空多様体が数空間であり、かつ特殊相対性原理が成立するというのは、あくまで発見法的な意味しか持たない。
したがって、一度特殊相対論の理論構造が出来上がってしまうと、特殊相対性原理は不要となってしまう。その理論構造とは、一般の多様体上にミンコフスキー計量を与え、自由粒子の運動とはその計量から定まるレビ=チビタ接続に関する測地線になるという構造である。要は、重要なのは多様体上にどんな計量テンソルが定義されているかであり、特殊相対論の議論は計量テンソルさえ定義されていれば、全て実行可能となる。
別の言い方をすると、数空間を多様体とし、特殊相対性原理が成立する特殊相対論を、一般の多様体も許す形で拡張したということだ。その拡張の仮定で、特殊相対論の本質はミンコフスキー計量にあると看破したのがターニングポイントであった。一般の多様体は局所的には数空間であり、さらにミンコフスキー計量が定義されているわけだから、局所的には拡張前の特殊相対論が成立することになる。これが「拡張」の意味である。
さて、特殊相対性原理が破れているとなれば、もはや双子のパラドックスは存在しない。なぜなら、どちらが動いているのかを原理的に決定することが可能であるからだ。つまり絶対静止、あるいは絶対運動が定義可能である。何度も言うが、絶対静止、絶対運動が否定されたのはあくまで仮説に過ぎない。それは、我々が観測してきた範囲で成立している(ように見える)に過ぎない。相対性理論が生まれる前、ニュートン力学が正しいと信じられていたのは、その当時観測されていたのが光速度に対して十分に低速な範囲の事象だったということと、構造的には同じである。
もう少し具体的に、どうやって絶対静止を決定するのか見てみる。
拡張された特殊相対論で考えると、ループするようなトポロジーを持つ多様体が許される。そのような多様体で、右回りと左回りの光を放って、それが戻ってくるまでの時間差が測定できる。この差によって慣性系を区別することが可能となる。差がなければ、それを絶対静止の座標系とみなす。逆に差があれば、それは絶対運動の座標系とみなせる。これは大域的なレベルで、特殊相対性原理の破れを観測する原理的な方法である。
Complete Solution To The Twins Paradox