接続


接続と「特別なチャート」の関係

なぜ多様体において、接ベクトル空間の間の関係は先験的に存在しないのか。もちろん、こちらが勝手に接ベクトル空間の間に「こういう関係がある」と定めることは出来る。それが接続なのであるが、ここで問題としているのは多様体に本来与えられている構造だけから、こちらの恣意性なしに、二つの接ベクトル空間の関係を構築できないのはなぜかという点である。

これは根源的には、チャートの中から特別なチャートを選ぶことが出来ないという点に帰着する。

二つの異なる接ベクトル空間を調べるには、当然多様体上の二つの異なる点を指定する必要がある。二つの接ベクトル空間を調べるとは、多様体上の異なる点の間の関係を調べることに他ならない。そして、位相構造を超えて、多様体上の異なる点の間の関係を調べるにはチャートを用いるしかない。(位相構造だけでは連続性しか言えないので、接ベクトル空間の関係は調べられないはずである。ぐにゃぐにゃと変形する図形の接ベクトル空間について、何か関係があるというのは難しいだろう。)

確かに、チャートを用いれば、二つの点における方向を詳細に比較することが可能となる。実際、チャートを用いれば空間を数空間と見なせるので、数空間としての「標準的な」方向が定義できる。したがって、その方向との比較によって、二つの異なる点における方向を比較することが可能となる。しかし、チャートの中から特別なチャートを選ぶことが出来ないのだから、この「比較」には幾何学的な意味がない。異なるチャートを選べば、二つの方向について全く異なる関係が構築されるだろう。

したがって多様体の一般論としては、接続は外部から付加されなければならない。

多様体は局所的には座標系を導入できる空間である。座標系があれば、それを動かすことで方向を指定することが可能となる。しかし、この動かし方は異なる点では比べることが出来ない。それは別の座標系を入れれば、全く異なる動かし方になることから分かる。座標系はある点において、方向を指定する方法を提供するのみである。これは座標系が点の位置を詳細に指定する方法を与えてくれるからである。しかし、この指定方法は座標系の選び方に依存する。方向という概念が点の移動が本質であり、点の移動を指定する方法が多様体構造に座標系以外無いのであれば、多様体構造において特別なチャートは無いので、必然的に幾何学的に意味を持つ方向の比較は不可能という結論に至る。

元々点集合には方向という概念を入れる余地があるが、座標系を導入してその可能性を活用できるようになったと解釈すべきだろうか?

とはいえ、これまでの分析を逆手に取れば、もし特別なチャートを(問題としている多様体上に付加された追加構造を用いて)選ぶことが出来るのなら、そこから接続が定義できるだろう。また、逆に、接続が存在すれば、特別なチャートを選ぶことが可能となるはずである。しかし、接続を定義するために特別なチャートを選ぶというのは、概念の特性を取り違えている。チャートの本分は点に座標を与えることであって、接続を定義するというのは役割として持たせるべきでない。それをしたければ、チャートでやるのではなく、接続という概念を用いるのが適切だろう。

そして、接続を定義するにはどうすればよいか、という問題が生じてくる。

空間が等方的でなければ、特別な方向が存在するので方向が比較できそうだが、それはあくまでその点での方向の指定であって、異なる点における方向の比較として使えるかは明らかでない。

接続と平行移動

接続を単に接ベクトル空間の間の関係を確立するものとして捉えることは不適当である。実際、我々は接続という概念の経路依存性を利用して曲率を定義するのがゴールである。逆に言えば、接続は経路依存性を持たなければならない。もっと言えば、球面S2S^2や円柱に関する曲率に関する予備的考察で登場したベクトルの「平行移動」を再現するものでなければならない。したがって、接続を多様体上の任意の2点における接ベクトル空間の間の関係を与えるものとして定義するのではなく、まず平行移動から考えを始めなければならない。平行移動が与えられれば、その結果として接続は経路依存性を持つ形で簡単に定義することが可能である。つまり、考察の主体は平行移動であって、接続はそこから導かれる派生概念と考えるのが妥当である。

しかし、平行移動とは無限小平行移動の積み重ねとして表現できるわけだから、最も単純な形で議論をスタートするなら、まずは無限小平行移動を定義するのが良いだろう。実際、接続を任意の二つの接ベクトル空間の間の写像を与えるものとして定義するのは、それが経路依存性を持つ以上、非常に複雑になる。

異なる点での比較という微分の本質と平行移動

一般的には、無限小平行移動を定義する代わりに、共変微分を用いる。両者の等価性について検証してみよう。

共変微分はベクトル場のある方向への変化を測るものである。方向微分は関数のある方向への変化を測るものであるから、共変微分は方向微分のベクトル場バージョンだと言えるだろう。

ベクトル場の変化を測るには、異なる点におけるベクトルを比較する必要がある。比較のためには平行移動が必要である。微分の本質は、異なる点における値の比較である。本来独立して存在する異なる点の間に存在する関係性を明らかにすることで、1つの点における情報から、次々に他の点の情報を知ることが出来るようになる。異なる点におけるモノの比較には平行移動が必須である。関数の場合に平行移動が取りざたされなかったのは、数の場合には異なる点での比較が容易だったからだ。一方でベクトルの比較、つまり、共変微分には無限小平行移動の概念が必要であり、逆に共変微分があれば比較が出来るので無限小平行移動が定義できる。(比較の結果、変化がないものを平行だと定義すればよい。)微分の本質を異なる近接点におけるモノの比較だと看破したのであれば、共変微分と平行移動の等価性は見やすい。故に平行移動の代わりに共変微分を与えても良いことになる。しかし、無限小平行移動は裸の無限を取り扱っているので数学的には都合が悪いので、共変微分が用いられることになる。

接続という概念を追って、無限小平行移動、そして共変微分にまでたどり着いた。しかし共変微分には当然ながら微分されるものが必要であり、その意味で間接的に無限小平行移動を定義しているに過ぎない。これは接ベクトルを方向微分として間接的に定義したこととパラレルになっている。我々は方向=無限小移動という概念を直接定義する代わりに、「無限小移動して関数を比較した結果」を定義することによって間接的に方向を定義した。空間における方向という概念が規定されたことで、さらに、ベクトル場の方向微分、つまり二つのベクトルを比較するという概念が検討できる足場が生まれた。そして「無限小平行移動」を定義する代わりに、「無限小平行移動によってベクトル場を比較した結果」を定義することで、間接的に無限小平行移動を定義した。どちらも、無限小という裸の無限を取り扱わない代わりに、関数やベクトル場の微分という形で概念を構成している。

接束という概念と無限小平行移動

しかし、無限小平行移動は本当に、このように間接的にベクトル場の微分という形でないと定義できないだろうか?

無限小平行移動は、そのままでは裸の無限を含んでいるので都合が悪い。しかし、無限小をそのまま取り扱わずに、別種の概念を作り出すという方法論は、接ベクトルを生み出す際に用いられた実績がある。接ベクトルは無限小移動の概念の代わりに用いられる。では、これをヒントに無限小平行移動も取り扱えないだろうか。結論から言えば、接束という空間の接ベクトルとして無限小平行移動が表現できる。

接束というのは、多様体の各点における接ベクトル空間を束ねた空間である。より具体的に言うと、多様体の点ppと、その点における接ベクトルvvをまとめた(p,v)(p,v)という組を一つの点とする新しい空間である。この空間の各点は、その定義によって、元の空間の点の情報だけでなく、接ベクトルの情報も併せ持っている。したがって、元の空間における点の移動だけでは十分に記述できない概念、例えば元の空間で点が動きつつ接ベクトルも変化するという平行移動が、接束においては単なる点の移動として表現されることになる。接束とは、平行移動を記述するための自然な土台となっているのである。

接束内を動いてみると、元の空間では位置ppとそこでの接ベクトルの変化として観測される。この接ベクトルの変化の中で、平行移動と見なされるものと、そうでないものがあるはずだ。接束内で勝手に移動を行うと、接ベクトルは点でバラバラに動くことになる。しかし、接束内のある特定の方向へ移動すると、元の空間ではそれがベクトルの平行移動に見えるだろう。しかし、論理的には、平行移動という概念を定めるために接束を考えているのだから、これは順序が逆で、接束内において「これが平行移動である」という移動を定めることが必要である。それによって元の空間における平行移動が定義されることになる。そして、平行移動は無限小平行移動の集積として理解されるから、接束内で無限小平行移動、つまり接束内での接ベクトルの内で、何が平行移動なのかを定めればよいことになる。

接束というのを、各点における接ベクトル=ファイバーを束ねたものとして幾何学的に解釈すると、まず、各ファイバーの方向へ移動するという概念は簡単である。それは(p,v)(p,v)からppへの射影を用いて定義できる。つまり、接束における垂直方向という概念は、接束と言う構造自体から定まる。要するにそれは(p,v)(p,v)という点について、ppを動かさずにvvだけが変化する移動として規定される。一方で、あるファイバーから別のファイバーへ移る場合、「水平方向」は予め定まっていない。これは、vvを動かさずにppだけが変化する移動ということになるが、「vvを動かさない」という概念が存在しないのだ。これは元の空間で言えば、平行移動という概念に等しい。

接束と言う多様体は、一般の多様体に比べて射影π\piという構造が余分に付加されているのが特徴である。これによって垂直方向が定義できる。しかし射影からは水平移動が定まらない。

そこで、「この方向へ動けば、vvを動かさないと見なされる」という方向をこちらで設定する必要がある。これが水平方向である。接束TMTM2n2n次元あり、垂直方向=ppの自由度でnn次元あるので残りのnn次元を決定するのが水平方向である。つまり、接ベクトル空間を垂直空間とその補空間である水平空間への直和分解が与えられる。

接ベクトルが垂直方向かどうかは水平空間が無くても判定が可能である。一方、問題となるのは、垂直方向でない接ベクトルが「どれだけ垂直方向を向いているか」を決定することである。これは「どれだけ垂直方向を向いていないか」を決めることと同じである。

つまり、元の空間において無限小平行移動を定義することは、接束で言うと、各接ベクトル空間に定まっている垂直空間の補空間である水平空間を定めることになる。この方法によれば、無限小平行移動をベクトル場の微分として間接的に定義する必要はなくなる。

接続形式

こうして、接続=無限小平行移動を定めるということは、接束の各点においてnn次元の水平空間が定まることになる。このように、空間の各点に高次元の幾何学的図形が配置されているというのは、微分形式で見た光景である。そこで、接続の全情報を持った微分形式が定義できないかと考える。

nn次微分形式は、nn本のベクトルに対して実数を与えるものであった。しかし、ここで欲しい微分形式は、1本のベクトルに対してその垂直成分を与えるものである。そこで微分形式の概念を拡張して、実数ではなくベクトル値も許容する。

与えられた接ベクトルに対して、その垂直成分を与える写像のことを、接続形式と呼ぶ。

垂直成分を与えるのも、水平成分を与えるのも、情報量としては同じであるが、なぜ垂直成分の方を接続形式と呼ぶのか。これは、我々がこれからの議論で扱うのが「垂直成分の有無」であるからだ。

クリストフェル記号の由来

接続を決定するには、点ppの基底が無限小平行移動でどう変化するかを記述すればいい。それを座標成分で表現するのがクリストフェル記号記号である。基底と、方向、そして何番目の基底成分かで3つの添え字を持つことになる。

まず接ベクトルを返すものでは十分ではない。接ベクトルは単に一点でしか意味を持たない。別の点への比較にならない。共変微分が接ベクトルを返すことの意味は、2つの点を比較した結果という意味づけがあるからだ。何の背景情報も無しに、接ベクトルだけを与えても意味がない。無限小接続が意味を持つなら、それは確かに無限小離れた接空間への接続方法を教えなければならない。単に接ベクトルを与えるだけでは情報が足りない。だから近傍で定義された量を比較するという意味が必要であり、それがベクトル場ZZの役割である。固定された情報の土台が近傍にあって、それらがどう接続されているのかという話になる。だから、実際はZZとして全てのベクトル場は必要ない。無限小近接したベクトル場の基底が、点ppでの接ベクトル場の基底とどう結びついているかが分かればいい。これがクリストッフェル記号の由来ではないか? しかし残念ながら与えられた接ベクトル空間から基底を選ぶ標準的な方法は存在しない。計量があれば可能なのでは?それがレビチビタ接続か?計量があれば正規直交基底を標準的な規定として選べる。これは誤解がある。今は接続がある前提の話だ。正規直交基底でフレームが定まるが、それは接続の標準的な表示方法があるという意味に過ぎない。一方で、接続の結果、2つの正規直交基底が接続されていれば計量の意味では都合がいい。 この困難を避けるためには、ZZを任意のベクトル場とするのが最も収まりがいい。ただしこの任意性は接続を決定する上で実は過剰なのである。 接続を与えるためにはどうしても無限小近接する接ベクトル空間から、予め比較用のベクトルを指定しなければならない。しかし多様体の構造のみからそれを標準的に選ぶ方法がない。選択を避けるためには、全てを使うしかないというわけだ。 もし予め近傍の全ての接ベクトル空間の基底を選んでおいたとしたら、それは結局ベクトル場を用意するのと変わらない。全てのベクトル場を使わず、その中で線形独立なものを選んでいるだけだ。つまり結局はベクトル場の方法と同じことをしているに過ぎない。 接続の定義に各接空間の基底を選ぶ標準的な方法が含まれていない以上、ベクトル場を用いるのは仕方のないことなのだ。

多様体の接ベクトル空間の間に関係が無いというのは、精密には構造からの標準的な方法が無いという意味。

接続が平行移動と関係があるのは、曲面に沿ったベクトルの平行移動という低次元での概念が出発点になっているから。これは無限小平行移動の積み重ねとして、経路に依存するものとして与えられる。

ねじれの定義

接続は、二つのベクトルが「同じものだ」と主張しているが、それはベクトルが無限小移動を表しているという意味内容を無視した取り決めである。同じものだとされた二つのベクトルが空間内で持つ無限小移動の方向が同じとは限らない。

接束において接続を定義する時、我々は接空間に水平部分空間を定義した。しかし一方で、接束の点は(p,v)(p,v)と表示できるが、ここでのvvの機能と言うのは、水平部分空間を定義する際には忘れ去られている。接束の点としてのvvというのは、単に接束の点を区別するためのラベルに過ぎないのである。したがって、接続とvvが元々持っていた足元の空間での方向という意味が整合的かという問題が生じる。これを定量化するのかねじれという概念である。

もちろん、接続がなければ、異なる二点での方向が同じかどうか言うことは出来ない。だから、ねじれについてこのように「平行移動によって方向が変わる」という言い方は奇妙に思えるかもしれない。このような説明が可能なのは、空間全体にグローバルな意味で方向が備わっている場合だけだ。あるいは神の視点と言ってもいい。もしそれが気になるなら、グローバルな意味で方向が定義できるような例で接続を考えているとみなしても良いだろう。例えば普通のユークリッド空間において、接続、つまり無限小平行移動を通常のそれとは全く異なるものとして定義することが可能である。この場合、いわゆる神の視点によって曲率や、ここでのねじれの説明を理解することが出来る。

とはいえ、神の視点は一般には許されないので、前提とすることはできない。説明の便宜上導入されることはあっても、それを用いて理論を構築することは許されない。神の視点が使えない以上、絶対的な変化は検出できないので、せいぜいできるのは相対的な変化の検出ということになる。曲率もねじれも、そういうわけで二つの経路の差として相対的に定義されている。

ねじれは曲率とは異なる。曲率はあくまで接続の整合性であった。曲率を定義する時、vvが元々持っていた意味内容は必要なかった。それは接続の結果得られる二つの結果の差であった。しかしねじれは、接続と接ベクトルとしてのvvとの整合性を見ている。

ねじれとは、接続と接続によって運ばれたベクトルが持つ方向という機能のズレのことだとすれば、それをどうやって測ったら良いだろうか。まず点ppにおけるXXという接ベクトルを接続によってYYという方向へ無限小平行移動する。ここをqqとしよう。こうして得られる接ベクトルに沿ってqqから無限小移動した点をrrとする。rrという点は、接ベクトルXXによって無限小移動するという動作が、YY方向への無限小平行移動によってどれだけ変わったかを内包している。しかしrr単独では、ずれを見出すことが出来ない。ずれとは当然、前後があって確定するものである。したがって、XXによる無限小移動がYYによって無限小平行移動される前に持っている性質と、比較せねばならない。そのためにまずppからXXによって無限小平行移動をした点をssとしよう。ssXXの無限小移動の効果が純粋に取り出されている。しかし単にssrrを比べてはいけない。なぜならssにはまだYYによる移動の効果が付加されていないからだ。そこでssにおいてさらにYYによって無限小移動を行った点をttとしよう。しかし、ここでYYによって無限小移動すると言ったが、それは点ppでのYYの無限小移動でなければならない。しかし今いるのはssであるから、純粋なYYの無限小移動を得ることが出来ない。せいぜいできるのはYYXXによって無限小平行移動したYYによる無限小移動だけである。

接ベクトルに沿った移動であれ、平行移動であれ、どちらも空間内を移動していることに変わりはない。二つの経路pqrpqrpstpstを考えているが、互いの経路で、素での移動か、平行移動した後の移動かの違いがある。単独の経路ではその差を知ることはできないが、互いを比べることで差を間接的に知ることが出来る。経路pqrpqrではXXは平行移動後で移動に用いられているが、経路pstpstでは素のXXが移動に用いられている。YYについてはその逆である。素のXXと平行移動後のXXを単独で比較は出来ない。なぜならそれには神の視点が必要であって、一般にそれは許されないからだ。そこで、二つの経路の相対的な差を考えねばならない。捩れがあるということは、平行移動の前後で相対的にではあるが、確かに進む向きに変化が生じているということだ。

ここで、単にr,tr,tを比較することはできない。というのは、我々は今2次の変化に注目しているからだ。無限小平行移動の結果引き起こされる方向のズレは、「ズレのズレ」であるから2次である。したがって、ズレのズレには2次の影響が効いてくる。我々は今、XXYYによって無限小平行移動すると言ったが、2次のズレまで見るのであれば、XXを平行移動している最中のYYの変化も考慮しなければならない。というわけで、r,tr,tを比較する時には[X,Y][X,Y]を除かねばならない。これはあくまで定性的な議論であるが、成分によって計算を確かめてみれば、[X,Y][X,Y]を除くという効果は、結果をppにおける値にのみ依存するものと分かる。

無限小平行移動を使えば良いと考えたとしても、2次のレベルで考える時は使えない。無限小平行移動という概念はあくまで1次のズレを見る時に使えるのであって、2次のズレまで見る場合には無限小平行移動がどの曲線に沿っての移動なのかが計算に入ってきてしまう。

Levi-Civita接続

平行移動が進む向きに影響を与えるとは、一体どういうことなのか。これを解釈する上で重要なのが計量である。

計量がなければ、接ベクトル空間では長さも角度も定義できない。そのような純粋な方向だけの空間というのは、我々には想像しがたい。計量無しの場合、平行移動と向きの関係は長さも角度も前提とせずに語らねばならない。これでは、捩れについて定義以上の説明を加えるのは難しい。単に、平行移動の前後で向きが異なっているとしか言えないだろう。

計量があって、接続が整合的という条件があれば、話は変わってくる。整合的なら、接続でベクトルは長さを変えないし、角度も変わらない。これはかなりの制限である。この条件下で、捩れはどう解釈できるだろうか。

まず、整合的な接続は、ベクトルの長さも相対的な角度も変えないのだから、結局のところ、絶対的な回転を加えていると解釈するしかない。これは計量との整合性がなければ違う話になる。接続はもっと自由にベクトルを結びつけられる。あまりに自由なので、長さも角度も使わずにその様態を形容することは恐らく無理だろう。

整合的な計量であれば、絶対的な回転を与える自由度しかない。この条件下で、捩じれを考えてみる。捩れとは、(神の視点で言えば)平行移動の前後で方向が異なることであった。今、捩れの原因ははっきりと解釈することができる。つまり、平行移動によって全体的な回転が生じることで、平行移動の前後で向きの変化が起きているという解釈である。捩れの原因を回転という単一の事象に帰結させられることが計量に整合的という条件が効いている部分である。この場合、我々が相対的に検出を試みていた捩れとは、二つの平行移動でそれぞれ生じる絶対的な回転の差であると説明できる。とは言え、全く同じものではないが。

したがって、もし捩れが無いならどうなるか。この場合、どの方向への平行移動でも相対的な向きの差が生まれないのだから、これは平行移動による回転が常に一定角度であることを意味する。この場合、すべての方向に対して同じ回転をするので、その回転が起きているのか、それとも回転していないのかを神の視点無しに区別することが出来ない。回転が生じていることを認識できるのは、二つの異なる方向への平行移動によって回転角に差がある場合だけだ。したがって、計量と整合的で捩れのない接続は、正規直交基底によるフレームをどの方向にも無回転に平行移動させるものとして解釈出来る。となれば、そのような接続がただ一つしかないことが分かる。これがLevi-Civita接続である。もちろん、絶対的な回転というのは観測できないから、論理的に正確には、捩れのない接続を無回転であると定義しているわけだ。

一方で捩れのある場合。これは、平行移動させる方向によってフレームに回転を生じる。しかし、明らかに、捩れのある接続から捩れのない接続が定義可能である。各方向に関して、元の接続が生み出す回転角を打ち消すような平行移動を行えば良いからだ。

とは言え、これは接続として捩れのないものだけ考えれば良いということを意味しない。それは単に捩れのない接続が作れるというだけで、捩れのある接続とない接続が作る幾何学が同じであることを意味しない。

捩れが0なら曲率も0になりそうな気がする。実際、今までの説明では、捩れが0なら平行移動によるフレームの回転が0だと言っていたからだ。しかし、これはあくまで平行移動の各瞬間での話である。つまりローカルな性質である。したがってある点での回転0が、他の点では回転ありだと見えることは否定されていない。捩れを計算する時には、平行移動は一度しか行われていない点に注意しよう。曲率は連続した平行移動の整合性を測るものであるから、質的に異なるわけだ。

接続を直感的に定義してみる(局所座標表示)


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最終更新: 2026-09-09